対談
創業者の想い

ご縁を大切に。専門知識を持ったご家族の一員として

1984年(昭和59年)に自宅の一室で設計事務所として創業した平野設計室は、現在では建築までを行う住宅建築会社となりました。
お陰さまで約30年に渡り、400棟余りの設計施工を行い、そのお客様方に支えられて現在に至ります。
しかし、我が日本には1000年以上も続いている会社が多くあるそうです。その大半が永くお客様に支えられ、「本業一本」を大切に守り続けてきているそうです。

それらの企業には足元にも及びませんが、私には、会社の売上や事業規模の拡大が目的ではなく、創業当時から設計建築という本業一筋で、人生の一大事業である家づくりを通じ、お客様お一人お一人が幸せになって欲しいという思いがあります。
人の価値観は家族状況の変化などにより、年を経るとともに変わっていくものですが、私どもは「専門知識を持ったご家族の一員として」、新築の頃だけではなく、20年、30年と経ってからも「この家を建ててよかった」と実感していただける家づくりに取り組んでいます。

またこれまで、お客様との「ご縁」を最も大切にしてまいりました。それは天からの授かりものです。ご縁を頂戴したからには、損得、工事の大小などでお付合いを判断せず、寧ろそれに身を預け、任されたことを懸命にやる、その想いで現在にいたります。

「会社にとっては日常業務であっても、お客様にとっては一生もの」
これは毎日私が従業員に伝えている言葉です。ご縁あって、弊社へ建築を依頼されたお客様、ご家族みなさまが幸せになって欲しい。創業当時から変わらぬその想いを、今後も全社一丸となって大切に守ってまいります。

平野 玖仁彦

受け継がれる想い

一生に一度、後悔しない「オリジナルのマイホームを」。

母の出身地である名古屋で両親が結婚、その地で私はこの世に生を受けました。
間もなく父が地元での設計事務所の起業を決意し、幼少の私も熊本に移りました。

いたずらをしては怒られる。やんちゃだった私のその頃の記憶といえば、平日の日中に父がキャッチボールなどでよく一緒に遊んでくれていたことです。いま思えば、自宅で仕事をしていた父、設計図面と格闘する毎日の中で、息子と遊ぶ時間を作ってくれていたんですね。でも、仕事となると、鉛筆と定規を持って、一心不乱に設計作業をする父の背中。「もっと遊んで欲しいな」と思っていましたが、その頃から設計・建築というものが、常に自宅の、生活の空気の中に存在し、自分の中に無意識のうちに溶け込んでいたようです。
体を動かすことが大好きだった私、小中学校時代はサッカーに明け暮れました。高校進学後はハンドボールを。つまり球技、チームプレイが生来好きなタイプかも知れません。自分勝手では成り立たないチームプレイ。パス一つを出すにも全体の状況を把握し、受け手の呼吸や状態を考える、青春期のこれらの経験はいまの自分の中の大きな財産になっていると思います。
高校卒業後、もともと弊社を継ぐことまでは考えないまでも、やはり建築という分野にとても興味のあった私は、海外でのデザインの勉強を終え帰国、大手ハウスメーカーに就職しました。
充実した日々でしたが、ある大きな疑問も次第に感じる様になりました。それは会社が求めるノルマに追われ、お客様のご要望や意見を充分に反映させる事が出来ないまま、マイホームのセールスをやらざるを得ないという現実でした。

お客様が10人いれば10人の個性、ご希望があるべき大切なマイホームを。

自分達の会社の都合や固定された数種類の建築モデルのみで進めて良いものか、そう悩む日々でした。
そんな時、ふと、既に設計から建築までを手掛けていた父の会社を見学しました。
そこには、お客様と時間をかけて話し合い、何度も何度も一から図面を書き直している活き活きとした父の姿がありました。私が感じていた疑問の答えは、やはりそんな父の背中にありました。そしてそれは、私の幼少期の、記憶の扉を開いてくれる光景でもありました。

一生に一度のマイホームを、オリジナルのマイホームを、腰を据え、お客様と向き合い、一緒に考えて造ってゆく。そして、その後も一生のお付合いを。

自分の目指すべき道がわかった私は、その時からこの会社を継ぐ決心をしたのでした。
そして現在、お客様が本当の満足と幸せを感じることの出来るマイホーム建築、そこに自分の生涯を捧げることを使命とし、大きな喜びとしている毎日です。

平野 義登

096-378-7091